2016年6月21日火曜日

靖国神社の徳川宮司の発言が波紋「大村益次郎像を撤去せよ!明治維新という過ち」

靖国神社の徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋

2016.06.20 11:00



靖国神社が揺らいでいる。来る2019年に迎える創立150周年に向けて徳川康久宮司が語ったインタビュー記事の発言が、波紋を呼んでいるのだ。

記事は共同通信社から配信され、加盟する一部の地方紙(静岡新聞6月9日付、中国新聞6月10日付)に掲載されたのみだった。ところが、地方でしか読まれないはずの記事が各界の識者の注目を集め、にわかに論争へと発展している。

徳川宮司は靖国神社が抱える課題や、神社の将来像について語った後、「明治維新を巡る歴史認識について発言していますね」という質問を受けて、自らの「明治維新史観」を開陳した。以下が宮司の発言だ。

〈文明開化という言葉があるが、明治維新前は文明がない遅れた国だったという認識は間違いだということを言っている。江戸時代はハイテクで、エコでもあった〉

〈私は賊軍、官軍ではなく、東軍、西軍と言っている。幕府軍や会津軍も日本のことを考えていた。ただ、価値観が違って戦争になってしまった。向こう(明治政府軍)が錦の御旗を掲げたことで、こちら(幕府軍)が賊軍になった〉

一連の発言が波紋を呼んだのは、靖国神社創建の「原点」に関わるからだ。靖国神社のルーツは明治2年(1869年)に建てられた東京招魂社に遡る。

明治維新に際して、薩摩藩・長州藩中心の後の「明治政府軍」と徳川家や会津藩が中心の「幕府軍」が争う「戊辰戦争」が勃発。勝利を収めた明治政府軍が“官軍”、敗北した幕府軍は“賊軍”とされた。

この時、明治維新を偉業として後世に伝え、近代国家建設のために命を捧げた官軍側犠牲者を慰霊顕彰するため、明治天皇が創建したのが東京招魂社だ。明治12年に社号が「靖国神社」と改められて現在に至る。

それゆえに、「賊軍vs官軍ではなく、東軍vs西軍」とする発言は、靖国神社の歴史観を揺るがしかねないと受け止められたのだ。

靖国神社にある遊就館に展示されている「錦の御旗」には、「戊辰戦争で官軍の象徴として使用された」との解説があるように、靖国神社の見解はあくまで、「明治政府軍=官軍」だ。

発言の背景には、徳川宮司の出自が関係している。徳川宮司は徳川家の末裔であり、“賊軍”の長であった15代将軍・徳川慶喜を曾祖父に持つ。徳川家康を祀った芝東照宮に奉職した後、靖国神社の宮司になった。「賊軍の末裔」が「官軍を祀る神社のトップ」に立ったわけである。

◆「大村益次郎像を撤去せよ」

「明治維新史観」の見直しは最近のムーブメントだった。昨年1月に発売された原田伊織氏の『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』(毎日ワンズ刊)がベストセラーになったことを皮切りに、半藤一利氏と保阪正康氏の共著『賊軍の昭和史』(東洋経済新報社刊)など、明治維新の勝者の立場に立った歴史観を見直す論考が相次いで発表されている。

その流れで徳川宮司の発言が飛び出したことで、騒動が拡大しているのだ。著書で「薩長史観」を鋭く否定した原田氏は徳川宮司に同調するかと思いきや、意外にも「発言は中途半端」と手厳しい。

「明治維新当時、東軍・西軍という言葉はほぼ使われていません。徳川家や会津藩に賊軍というレッテルを張ったのは明らかに薩長ですが、その責任や是非を問わず、当時ありもしなかった言葉に置き換えて流布するのはおかしい。また、靖国の持つ歴史観を見直さないのは欺瞞です。“官も賊もない”と言うならば、まず靖国神社の境内にある大村益次郎(官軍側の司令官)の銅像を撤去すべきです」

そんな意見が飛び出すほど、今回の発言は衝撃だった。波紋が広がる徳川宮司の発言について靖国神社は、「創建の由緒から鑑みて『幕府側に対する表現や認識を修正すること』を神社として行なう考えはなく、今後も同様の考えが変わることはないとの発言と理解しております」と回答した。

宮司は150年間封印されていたパンドラの箱を開けてしまったのか。

※週刊ポスト2016年7月1日号

参照元 : NEWSポストセブン


靖国神社の正体(御神体)は、英霊の魂を食べる鏡の妖怪である



靖国神社の合祀の方法は下記の通り。

その方法を見ると、どうにも、英霊の魂を鏡に閉じ込め、鏡に食べさせる儀式としか思えないのだが、どうだろうか?

靖国神社の合祀の方法

真っ暗闇の夜に人霊を「霊璽簿」(れいじぼ)に筆書きで移し、更に靖国神社の「御神体」とされる鏡に写し合祀され「神霊」となる。その上で秋の例大祭の初日に「魂をお招きし」、霊璽簿を前に宮司が祝詞(のりと)を上げ、国学院大学吹奏楽部が「水清く屍(かばね)を演奏する中、本殿正面の扉を開き、奥の奉安殿に納める。

同神社の霊璽(みたましろ)は神鏡と神剣であるが、副霊璽(そえみたましろ)として天皇の軍隊の忠死者若しくは戦争協力者を霊璽簿(れいじぼ)とよばれる名簿(和紙の帳面で現在2000冊以上にのなっている=もとは祭神簿といわれ、これには祭神の氏名、戦没年月日、場所、本籍のある都道府県、軍における所属、階級、位階、勲等などが記入されている{注})に記して(記名することが重要とされている)祀る神道上の宗教施設にほかならない。

ミクロネシアの小さな島・ヤップより

霊璽簿自体が靖国神社の神体ではないのです。本殿にある御太刀と御鏡が神体とされています。霊璽簿はあくまで霊を神体に移すための伝達手段という扱いです。

* この妖怪は、最近餌を食べていないので、腹が減って狂暴になっているのだよ。

* 鏡に閉じ込められた英霊を、妖怪から解放して、ふるさとへ帰してあげるべきだ。と思う。

参照元 : 阿修羅

靖国神社は田布施村の守護社

靖国神社は、「靖国で会おう」と誓った太平洋戦争で亡くなった日本兵の心の拠り所としてのシンボルとして考えられています。また、A級戦犯が合祀されていることから、日本の首相参拝が行われる度に、中国、韓国、北朝鮮の3カ国は激しく反発しています。

しかし、事実は真逆であり、靖国神社は、田布施村出身の朝鮮民族による日本民族弾圧のシンボルであり、かれらの謀略で殺された孝明天皇や、日露、日清戦争、そして、太平洋戦争で戦死していった日本の若者の怨霊を封じ込める、招魂の儀式の場です。

靖国神社は、1869年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた東京招魂社が始まりで、1879年に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。

明治天皇は、当時の山口県田布施村出身の大室寅之祐。1866年、孝明天皇と明治天皇となるはずだった睦仁親王が、同じく田布施村出身の長州藩士によって殺害。1869年の東京遷都で、大室寅之祐が新明治天皇として正式に御所ですりかわって即位しました。

招魂とは、彷徨える御霊を招き、この世での未練を断ち切らせ、あるいは自分の肉体が既にこの世には無いことを教え、死者の国(常世の国あるいは黄泉の国)へ行かせる儀式です。

*鎮魂とは、「(み)たましずめ」と読んで、神道において生者の魂を体に鎮める儀式であり、魂を外から揺すって魂に活力を与える魂振(たまふり)を含めて鎮魂という。

招魂の儀式は、江戸幕府が管理していた陰陽道ではない。この儀式は朝鮮人の儀式である。

孝明天皇と睦仁親王を殺害して明治天皇にすりかわった大室寅之祐と、それに関わった三条実美、伊藤博文 西郷隆盛らは、李王家の家臣を祖とする両班派閥で、謀略で殺した孝明天皇と睦仁親王の招魂が必要だと考えました。彼らは、大村益次郎に命じて東京招魂社を建立します。

その後、田布施村出身の長州藩士を中心とする明治政府に反旗を翻した西南の役で戦死者を招魂し、1879年に靖国神社に改名します。靖国神社は、1853年のペリー来航以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」という詭弁を弄して、彼らの怨念を封印する招魂の場となったのです。

征韓論で下野していた西郷隆盛は、孝明天皇を殺害して明治天皇をすりかえた張本人であり、西南の役では反乱軍である士族の人質だったのではないでしょうか。つまり、西郷隆盛の骨は靖国に招魂されていません。かれは、鹿児島の南州墓地で、高麗町出身の両班派閥の墓に守られています。

つまり、靖国神社は、田布施村出身の政府要人の神社であり、それは彼らに利用され殺された日本人の怨霊を招き封印する場です。

だから、東京裁判で死刑判決を受けた東条英機ら7人の遺骨は、1960年、殉国七士廟として愛知県西尾市東幡豆町の三ヶ根山に祀られたのです。

昭和天皇は、1975年を最後に参拝をしていません。それは、、A級戦犯の合祀問題に隠された事実を昭和天皇が知ったからでしょう。

田布施村出身の松岡洋右は、1978年に、殉国七士廟の遺骨を靖国神社に合祀しようとした際に、昭和天皇はこれに強く抗議しました。これは、A級戦犯に対する昭和天皇の怒りのように報道されていますが、事実は真逆で、靖国神社が、田布施村出身の朝鮮民族に利用された日本人の怨霊を閉じ込めるためのものであるからです。A級戦犯の合祀問題で、昭和天皇はこの事実に気がついたのでしょう。

つまり、昭和天皇は、田布施村の系譜ではないということを意味します。このあたりは、「天皇家と客家」に書いてあるのでここでは省略しますが、田布施村出身の伊藤博文は、朝鮮民族を裏切り、客家の血筋を皇室に入れた。アシュケナージ・ユダヤ人の末裔である田布施村出身者のとっては、スファラディ・ユダヤ人の客家は天敵である。

武士の系譜を引き継いだ山本五十六は、フリーメーソンの中曽根康弘の密告で戦死し、戦後、日本民族として首相となった田中角栄は、米国のフリーメーソンの謀略で失墜されます。

靖国参拝を政治に持ち込んだのは山本五十六を米国に密告した中曽根康弘。以降、鹿児島の田布施村の系譜をもつ小泉純一郎や、山口県田布施村の系譜の安倍晋太郎は靖国参拝を政治に持ち込んでいます。

田布施村系譜のフリーメーソンの守護神社である靖国は、邪馬台国フリーメーソンを守護する伊勢神宮とともに日本民族を支配するシンボルとなっています。

しかし、彼らは恐れています。戦中に出現した日月神事と客家の血筋をもつ昭和天皇の系譜にです。日本国のスファラディ・ユダヤ人は死に絶えていません。3.11でも東北のスファラディ・ユダヤ人は生き残っていて、その後の在日政権である民主党政権からの迫害にも耐えています。

現代の田布施村フリーメーソンの安倍晋三と在日政権である野田佳彦の選挙後の大同団結の謀略は実現しません。彼らの奇異ともえいる論理構成に、さすが愚民化政策で論理力を失った羊のような日本人でも、違和感を感じています。

世界の歴史や定説や常識はすべて真逆です。アシュケナージ・ユダヤ人フリーメーソンの描く世界は絶対に実現しません。

伊勢神宮は日本のメッカ → 本能寺の変の真実と式年遷宮の嘘

参照元 : 真実の日本の歴史

第22代当主 島津継豊 徳川綱吉の養女・竹姫を娶り、江戸将軍家と縁戚関係になる。

第25代当主 島津重豪 娘の広大院寧姫が徳川家斉の正室となり高輪下馬将軍の異名をとる。御台所〔江戸幕府将軍の正室で大奥一の立場〕となった。

第28代当主 島津斉彬 娘の天璋院篤姫が徳川家定の正室となり、御台所〔江戸幕府将軍の正室で大奥一の立場〕となった。

島津忠義の七女は今上天皇の母方の祖母で、現在の皇室との血縁もある。さらに五摂家筆頭の近衛家とも縁戚関係にある。

公爵(五等爵の最高位)

近衛家 旧摂関家 藤原北家嫡流(729年~)
九条家 旧摂関家 藤原北家嫡流(729年~)
二条家 旧摂関家 藤原北家嫡流(729年~)
一条家 旧摂関家 藤原北家嫡流(729年~)
鷹司家 旧摂関家 藤原北家嫡流(729年~)
三条家(転法輪三条家) 旧清華家 藤原北家閑院流(1021年~)
徳大寺家 旧清華家 藤原北家閑院流(1021年~)
岩倉家 旧羽林家 村上源氏(946年~)
島津家(島津宗家) 旧鹿児島藩主 惟宗氏(883年~)
島津家(玉里家) 旧鹿児島藩主家分家 惟宗氏(883年~)
毛利家 旧萩藩主 大江氏(791年~)
徳川家(徳川宗家) 旧将軍家 清和源氏と称するが明確でない
徳川家(徳川慶喜家) 旧将軍家別家 清和源氏と称するが明確でない

侯爵より陞爵

西園寺家 旧清華家 藤原北家閑院流(1021年~)
徳川家(水戸家) 旧水戸藩主 清和源氏と称するが明確でない
桂家 旧萩藩出身 大江氏(791年~)
伊藤家 旧萩藩出身 越智氏と称する
山縣家 旧萩藩出身 清和源氏と称する
大山家 旧鹿児島藩出身
松方家 旧鹿児島藩出身

侯爵(五等爵の第二位)

花山院家 旧清華家 藤原北家師実流(1062年~)
大炊御門家 旧清華家 藤原北家師実流(1068年~)
菊亭家 旧清華家
久我家 旧清華家 村上源氏(946年~)
醍醐家 旧清華家 藤原北家一条家支流。(1679年)
広幡家 旧清華家 正親町源氏(1664年~)
中山家 旧羽林家 藤原北家花山院家の支流(1131年~)
細川家 熊本藩主 清和源氏(939年~)
佐竹家 秋田藩主 清和源氏(939年~)
木戸家 萩藩出身 大江氏(791年~)
西郷家(西郷隆盛家) 鹿児島藩出身 平氏と称するが明確でない
徳川家(尾張徳川家) 名古屋藩主 清和源氏と称するが明確でない
徳川家(紀州徳川家) 紀州藩主 清和源氏と称するが明確でない
浅野家 広島藩主 清和源氏と称するが明確でない
池田家 岡山藩主 清和源氏と称するが明確でない
池田家 鳥取藩主 清和源氏と称するが明確でない
黒田家 福岡藩主 宇多源氏と称するが明確でない
鍋島家 佐賀藩主 源氏と称するが明確でない
山内家 高知藩主 藤原氏と称するが明確でない
前田家 金沢藩主 菅原氏と称するが明確でない
蜂須賀家 徳島藩主
尚家 琉球藩王
佐々木家 高知藩出身
大久保家 鹿児島藩出身 藤原氏と称するが明確でない
小松家 賜姓皇族 北白川宮能久親王子孫
山階侯爵家 賜姓皇族 山階宮菊麿王子孫
久邇侯爵家 賜姓皇族 久邇宮邦彦王子孫
華頂家 賜姓皇族 伏見宮博恭王子孫
筑波家 賜姓皇族 山階宮菊麿王子孫
音羽家 賜姓皇族 朝香宮鳩彦王子孫
粟田家 賜姓皇族 東久邇宮稔彦王子孫

伯爵より陞爵
四条家 旧羽林家
嵯峨家 旧大臣家 藤原北家閑院流三条家系(旧称は正親町三条家)。(1182年~)
中御門家 旧名家 藤原北家勧修寺流(873年~)
伊達家 宇和島藩主 藤原氏(669年~)
松平家(越前松平家) 福井藩主 清和源氏と称するが明確でない。
井上家 萩藩出身
小村家 飫肥藩出身
大隈家 佐賀藩出身 菅原氏と称するが明確でない。
西郷家(西郷従道家) 鹿児島藩出身 平氏と称するが明確でない。
東郷家 鹿児島藩出身 桓武平氏(806年~)
野津家 鹿児島藩出身

伯爵(五等爵の第三位)

南部家 陸奥盛岡藩主 清和源氏(939年~)
小笠原家 豊前小倉藩主 河内源氏(968年)
溝口家 越後新発田藩主 甲斐源氏
伊達家 陸奥仙台藩主 藤原氏(824年)
上杉家 出羽米沢藩主 藤原北家勧修寺流上杉氏
前田家 越中富山藩主 藤原北家利仁流斎藤氏庶流
島津家 日向佐土原藩主 惟宗氏(883年~)
宗家 対馬厳原藩主 惟宗氏(883年~)
阿部家 備後福山藩主 海野氏
有馬家 筑後久留米藩主 赤松氏
立花家 筑後柳河藩主 大友氏
堀田家 下総佐倉藩主 八坂氏
清水徳川家(徳川旧御三卿) 清和源氏と称する
田安徳川家(徳川旧御三卿) 清和源氏と称する
一橋徳川家(徳川旧御三卿) 清和源氏と称する
松平家 出雲松江藩主 清和源氏と称する
松平家 上野前橋藩主 清和源氏と称する
松平家 讃岐高松藩主 清和源氏と称する

真田家 信濃松代藩主 清和源氏と称する
大給家 信濃龍岡藩主 清和源氏と称する
柳沢家 大和郡山藩主 甲斐源氏と称する
津軽家 陸奥弘前藩主 甲斐源氏と称する
松浦家 肥前平戸藩主 嵯峨源氏と称する
中川家 豊後岡藩主 多田源氏と称する
亀井家 石見津和野藩主 宇多源氏と称する
藤堂家 伊勢津藩主 藤原氏と称する
大村家 肥前大村藩主 藤原氏と称する
井伊家 近江彦根藩主 藤原北家の後裔と称する
戸田家 美濃大垣藩主 藤原北家公季流正親町三条家の末裔と称する
酒井家 播磨姫路藩主 大江氏と称する
酒井家 出羽庄内藩主 大江氏と称する
酒井家 若狭小浜藩主 大江氏と称する
久松家 伊予松山藩主 菅原氏と称する
奥平家 豊前中津藩主 赤松氏と称する

東照宮は家康ではない。実は三河の源頼朝が主祭神

日光山
源頼朝がその母方の従兄弟を別当に据えて以来、鎌倉幕府、関東公方、後北条氏の歴代を通じて東国の宗教的権威の一中心であり続けた。

源頼朝
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎大夫)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→娘(由良御前)→源頼朝

母方の従兄弟
寛伝(寛典・観纒とも、額田僧都、式部僧都と称された、日光山満願寺19世座主、三河国滝山寺)
藤原実範(三河守)→藤原季兼(三河四郎)→藤原季範(額田冠者(三河国額田郡)、初代藤姓熱田大宮司)→藤原範忠→寛伝

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