2015年10月20日火曜日

自民党・義家 弘介議員のネトウヨ思想 「世界平和統一家庭連合(元統一協会)」の関連団体が開催した定例会に講師として参加

馳浩より危険! 文科副大臣・義家弘介のネトウヨ思想…「体罰禁止を見直せ」「事の善悪は国家が決める」

2015.10.19



本サイトが指摘した“体罰自慢対談”によって、就任早々、文部行政のトップとしての資質が問われることになった馳浩文科相。だが、その馳氏よりもっと問題がありそうなのがその対談相手だった文科省ナンバー2の義家弘介文科副大臣だ。

なにしろ、義家氏は対談の中で教諭時代に生徒を放課後の教室に4時間監禁して泣いて詫びさせたことを語り、「身体を通して教える場面というのはあり得る」と明言しているのだ。しかも、義家氏は実際に、教育界全体における“体罰禁止の見直し”を提言した過去まである。

2006年の第一次安倍政権下、首相の肝いりでスタートした教育再生会議は、その第一次報告(07年1月)に「体罰の基準見直し」を盛り込んでいた。実は、その提言を行ったのが、当時、教育再生会議の担当室長だった義家氏だ。「現状では教師は毅然とした指導ができない。両手両足を縛って『戦ってください』と言うのは無責任だ」として、1948年の法務省(当時)による「生徒に対する体罰禁止」の通達の見直しを訴えたのである。馳氏との対談での発言と合わせると、義家氏の“体罰推進思想”は明らかだろう。

しかも、彼の危険性は「体罰」に限らない。そもそも義家氏は、日本会議や神社本庁などの極右団体を母体とする議連懇談会に所属し、トンデモ疑似科学である“親学”の推進プロジェクトにも参加。安倍首相の目指す「愛国教育」の尖兵として、民族や出自あるいは思想による人々の排除を行ってきた。

たとえば自民党下野時の10年3月の参院予算委員会では、日教組が関連する「カンパ金」について発言。産経新聞がこれを「朝鮮学校へ通う子どもの就労支援に使われた」と書きたてたことがネットで拡散され、在特会メンバーらによる徳島教組襲撃事件を誘発した。

翌年の11年には、日本会議の常任理事である伊藤哲夫氏が主催するシンポジウムにて「教育勅語精神の保守」の必要性を説いている(「明日への選択」日本政策研究センター/11年11月号)。言うまでもないが、教育勅語は“臣民は皇室国家に奉仕せよ”と号令をかけて戦前・戦中の「国体思想」を支えた“教典”のひとつだ。

12年3月参議院予算委員会では、国会で北海道の小・中学校に配布されていたアイヌに関する副読本について質問し、“日本は単一民族ではない”“在日朝鮮・韓国人などは「日本国民」”などとする表現を問題視。「敵対をあおるような内容なんですよね」「日本人を全否定して、(中略)こんなことを堂々と書いている」と批判した。また同年11月には、朝鮮学校への無償化適用を阻止することを目的とした高校無償化法改正案を議員立法として提出している。

教科書問題での現場介入も枚挙にいとまがない。沖縄では「新しい歴史教科書をつくる会」系の教科書をゴリ押しし、義務教育教科書無償措置法を盾にして、これを拒否した学校に圧力をかけた。また昨年の朝日報道問題に乗じて、学校教育で慰安婦について教えないよう牽制し、さらに沖縄戦の関連教材を「一面的な思想に基づく内容」として回収させるよう動いた。なお同年、政府は社会科教科書の「検定基準」の見直しを行っているが、義家氏は産経新聞のインタビューで「この度の改定により、すべての社会科教科書が歪曲自虐史観から脱却することを期待したい」と語っている(14年10月25日付)。

極右思想、戦前・戦中体制の称揚、マイノリティ差別への加担、日本軍による戦争犯罪の否認、そして歴史修正教育……ご覧のように、安倍政権による“教育破壊”の旗振り役である義家氏だが、そのなかでも一番の問題は、石原慎太郎都知事(当時)と対談した際に放ったこの発言だろう。

「まず第一に、善悪に関する明確な線引きが必要です。(中略)では、誰が共通の線引きをするのかといえば、私は今こそ国がやるべきだと思っています」(「諸君!」文藝春秋/07年3月号)

ようするに“ものごとの善悪は国家が決める!”というのである。完全にお国による思想統制の典型であり、民主主義を正面から否定する発想だ。このような人物が文科省の副大臣として我が物顔で教育界を牛耳ろうとしているのだから、もはや戦慄を覚えるしかない。

しかも、義家氏が恐ろしいのは、その“異様に底が浅い”国家統制教育推進の極右思想を、強引に教育現場の現実的課題にあてはめようとしていることだ。

たとえば、前述の石原氏との対談のなかでも、義家氏はこんな“珍説”を得意げに披露している。

「私は、いまのいじめの問題には戦後教育の負の部分が凝縮されているように思えるのです。というのは、本来、『知・徳・体』の三つをバランス良く育てるのが教育の目的であるはずなのに、戦後の日本では、『知』の部分、勉強さえある程度できればそれでいい、『体』や『徳』すなわち規律意識などは後回しというような扱いをしてきた。その膿が、いまいじめ問題となって現れているのではないか」

もし規律意識が希薄だからいじめが起きるなら、なぜ自衛隊や警察や体育会の部活動でいじめが横行しているのか。そもそも、いじめ問題というのはそんな簡単な話じゃない。個々のケースで事情は異なるし、複合的な理由がある。それを一言で「戦後教育の負の部分」などとまとめて、ほんとうにいじめ問題を解決できると思っているのだろうか。

さらに、義家氏は男子が女子をいじめるケースが増えているとして、こんな分析までしている。

「男子による女子のいじめが起きる背景のひとつには、近年進められたジェンダーフリー教育が考えられます。たとえば、いま、小学校の名簿は男女混合名簿が主流です。(中略)ジェンダーフリー論者に言わせれば、『女を殴るのは男として恥ずべきことだ』というごくごく当たり前の規律さえ、男女差別につながるから教えてはならない、というわけでしょうか」

“女子が男子をいじめる”理由ならまだしも、“男子が女子をいじめる”理由として、ジェンダーフリーをあげるのだから、支離滅裂である。義家氏は、男子のよる女子へのいじめの増加がこれまで泣き寝入りしていた女子が声を上げ始めた結果だ、ということがまったくわかってない。いや、それとも、わかっているからこそ、男尊女卑思想を復活させて再び女子を黙らせたいのか。

他の主張も全部この調子だ。義家氏は2010年に『ヤンキー最終戦争 本当の敵は日教組だった』(産経新聞出版)なる本を出版しているが、内容は“日教組は日本のガン!”のエンドレスリピート。前述のいじめ問題、不登校、学力低下、モンスターペアレンツの増加、性教育の内容、若者の年金未納……すべて諸悪の根源は日教組と戦後教育にあると断じている。

こういう言説を見ていると、右とか左とか言う以前に、この男が実は、生徒や教育現場のことなど一切何も考えていない、ということがよくわかる。とにかく今、起きているすべての問題を、自分たちの権力強化につながるように無理矢理「戦後教育のせい」にして、攻撃しているだけなのだ。

周知のように、義家氏はもともと共産党員で、ほんの10年ほど前まで、全く逆の主張を口にしていた。たとえば、「赤旗」2004年7月25日付ではこんな教師論を展開している。

「未来をつくるのは子どもたちです。子どもたちが『変えてくれ』といってるわけでもないのに、一部のおとなの都合で法律を変え、子どもたちの未来をおとなが勝手につくりかえるのは許されない」

「教育は、権威によるコントロールであってはならないと思います。権威が必要な瞬間はありますよ。でも、子どもへの思いが土台にない権威は、教育をくもらせる結果にしかなりません。逆に、だれもいうことを聞かなくなります。法律に『規律』を書くより、まず子どもの声を聞け、と思います」

それがたった10年で、“国家という権力”を振りかざして「愛国教育」を子どもたちに押し付け始めたのである。

つまり、この男はもともと思想とか教育理念とか呼べるようなものをもっているわけではないのだ。かつては共産党員として管理教育批判の定型を叫び、今は安倍自民党のなかで出世するために、ひたすら教育右派の定型文をマスターし、それをスピーカーのようにがなりたてている。

だから、その言葉は当然、支離滅裂だし、中身のないスカスカなものになる。たとえば今年の9月7日のFacebookで、義家氏は安保法制反対デモに参加した学者による安倍首相への批判を〈まさに『ヘイトスピーチ』そのもの〉として、こう断じた。

〈暴言。違いますか? それが『権威』の名の下で繰り返されている。日本国として、極めて、恥ずかしいことです〉

意味もわからないまま、政権批判を封じ込めるために「ヘイトスピーチ」だとがなりたてる。これはまさに質の悪いネトウヨ言説そのものではないか。

だが、これは笑い事ではない。これからしばらくは、こんな人物が文科省のナンバー2になって、森喜朗のロボットともいわれる元プロレスラーと一緒に教育行政を担っていくのである。きっと、強いものに媚びへつらい、出世のために前言を翻し、弱いものをいじめ抜く立派な日本国民が出来上がることだろう。

(宮島みつや)

参照元 : LITERA


自民党の義家弘介議員は、統一教会の関係者である阿部正寿氏が設立した「世界戦略総合研究所」が2010年6月22日に日本橋公会堂で開催した定例会に講師として参加していた。

以下、2010年6月22日 義家弘介公式サイト、国政ニュース詳細より引用

『2010年6月22日【講演会】 世界戦略総合研究所 定例会 世界戦略総合研究所定例会が日本橋公会堂で開催され講師として参加。集まったおよそ130名を前に『人造りこそ国造り~教育再生を目指して~』の演題で講演を行った。







2010年6月22日 義家弘介公式サイト、国政ニュース詳細のウェブアーカイブ(archive.today)

2010年6月22日 義家弘介公式サイト、国政ニュース詳細のウェブ魚拓

以下、世界戦略総合研究所の公式サイト、活動とあゆみ 2011年7月14日の記事より一部抜粋、引用

▼定例勉強会で講演をする拓殖大 森本教授



▼チャンネル桜にTV出演



▼自民党参議院議員 義家弘介氏と



▼戦略研の講師として来られた安倍晋三先生



▼安倍晋三先生と握手する阿部会長



▼金正日将軍の料理人 藤本健二氏



▼日本創新党党首 山田宏先生



▼日本からの参加者した国会議員達



▼中華民国行政院外交部 楊潔篪外交部長と挨拶する阿部会長



▼新党たちあがれ日本代表 平沼赳夫先生に改国救世の提言をする阿部会長



世界戦略総合研究所の公式サイト、活動とあゆみの魚拓

以下、世界戦略総合研究所の公式サイト、設立趣意書より引用

設立趣意書

2011/03/23(水) 21:01 — admin

当研究所の設立趣意は、10年前の設立当時と基本的には変わりませんが、10年間の時の推移と共に変わった部分もあります。

特に平成23年3月11日に起こった東日本大震災によって、日本の問題点の多くが露呈されました。民主党政権の無定見と無能力、マスコミによる風評被害の拡大、地方自治体や住民のエゴ等、戦後66年のあらゆる問題が累積して現出したものと思われます。

現在日本の諸問題の根源は、戦後GHQによる日本の解体工作により、 日本古来の精神的伝統は除去され、その間隙を埋めた左翼唯物思想の蔓延によりもたらされたものであります。

更には、瀕死の状態にある日本を喰い尽くそうと狙ってくる近隣諸国の傍若無人の攻撃にさらされ、日本は為す術を知らないという情けない状態にあります。このまま放置すれば、日本はここ数年の内に崩壊するのは火を見るより明らかであります。日本がこのような状態になった原因は、日本解体を目指す唯物左翼思想の蔓延ともう一つは敬天愛人思想の欠除であります。戦後日本が世界第二の経済大国となった繁栄の陰には、大東亜戦争で犠牲になった260万人の英霊の存在があったことを忘れてはならないのです。

それにも拘わらず、日本の政治家達は、外国からの不条理な批判を恐れて靖国神社の参拝をしないという無定見ぶりに英霊達は怒っているのです。日本政府がいくら努力しても経済状態が好転しない最大の理由は、天が怒っているからなのです。天や霊界を否定する左翼唯物論者には決して理解できないことでしょう。従ってこのような左翼唯物論者達を政権の座から除去しない限り、日本が経済的に繁栄し、国運が伸長することは決してあり得ません。

更にもっと重要なことは、日本を本当に良い国に再建したいと願う思想に基いた国家目標とビジョンの提示、それに基いた国家戦略の策定、更にはそれを実現するための戦術の研究と政策の作成等がなされなければなりません。

本研究所は、このような趣旨に基き、日本全国の同憂の志相集い、設立されたものであります。今こそ日本を根本的に変革する天が与えた最後のチャンスであると信じます。この機を逸せば、日本の崩壊は必定であります。どうかこい願わくは、日本の将来を深刻に憂う皆様、本研究所の趣旨を御理解の上、私達の活動に御参加下さり、日本再建を成し遂げようではありませんか。御支援を宜しくお願い申し上げます。

平成23年8月21日

世界戦略総合研究所所長  阿部 正寿

世界戦略総合研究所の公式サイト、設立趣意書の魚拓

【参考情報】
以下、「光言社選書4 新堕落性の構造 こう解ける! 人生問題」2006年7月1日発行第1版第4刷 著者紹介の記載より引用

阿部正寿(あべまさとし)
昭和12年(1937年)5月福岡県京都郡犀川町に生まれる。
昭和35年(1960年)3月、九州大学文学部社会科学科卒業。
昭和39年(1964年)、統一原理に出会い、献身的に活動を始める。
昭和44年(1969年)5月、文鮮明御夫妻による祝福(結婚)を受ける。
昭和50年(1975年)新聞社創設にかかわり、ジャーナリストとして活動。
昭和54年(1979年)国際・世界統一十字軍総裁として渡英し、平成5年(1993年)まで15年間、英国ロンドンを拠点として、ヨーロッパ全域で活動。
平成5年(1993年)12月23日、日本に帰国。現在、日本のみならず海外にも活動範囲を広めるとともに、執筆活動にも従事している。

【参考】阿部正寿氏の経歴



参照元 : 政治家発言データーベース


義家弘介研究会 - 義家弘介の疑惑(結婚の経緯編)より転載

義家氏は作家・瀬戸内寂聴氏との対談本「私の夢 俺の希望」の ... 真相はどうなのか、義家氏を直撃した。 本当に教え子を妊娠させたんですか。

義家弘介の経歴. 義家弘介の結婚の経緯. 迷言・珍言集. 恩師との美談についての疑惑 ...

元教え子との結婚の経緯について検証します。

マスコミに出始めは、当時担任していた女生徒と交際し、妊娠、退学させたが、結婚したことで「責任を取った」「純愛だった」と主張。講演会や本、「徹子の部屋」では出産に立ち会ったことを感動的だったと語っている。

週刊アスキー 2005年9月6日号 進藤晶子との対談では、大麻事件で傷ついた女生徒の相談にのっているうちに結婚になったと発言。月刊LEE 2005年6月号では、退学後交際を始め、1年半後に妊娠発覚と発言している。教育委員就任直後のインタビューである。また、瀬戸内寂聴との対談本「私の夢 俺の希望」では、退学後交際をはじめ、12月に結婚、2003年5月出産と主張している

===========================================

「私の夢 俺の希望」(瀬戸内寂聴と共著 PHP出版)p190より

義家 妻とのことについては、俺は外に向かって語ったことがないんです。家族が好奇な視線にさらされることが怖くて……。でも、寂聴さんなら変な色眼鏡や興味本位ではなく受け止めてもらえると思うので話します。確かに妻は俺の教え子です。そして、北星余市高校の中退生です。

彼女は一年遠回りして、俺のクラスの生徒として北星余市に入学しました。周囲に流されることなく、自分の世界をきちんと持っているしっかり者。目の前の彼女に対しての印象でした。事実、一年生のときは何の問題もなく、ほぼ皆勤で学校に通ってくれました。でも…… 二年生になると、突然、彼女は学校に来られなくなりました。

瀬戸内 来られなくなった?

義家 そうなんです。毎朝、しっかりと起きているのに、寮の部屋に閉じこもり、学校に来ることができなくなってしまったのです。俺は、何度も彼女の元を訪れて、「今、頑張れば大学にだっていける。どんなに辛くても、この場所でいろいろな人間関係を学べば必ず将来に繋がる。とにかく歯を食いしばってでも学校に来るんだ」って、そう励まし続けたんです。でも、彼女の口から出る言葉は、俺やクラスに対しての不満だけでした。学校と彼女をつないでいる時間数だけが、刻々と減っていったんです。そして、あと一日休んだら、時間数が切れて彼女は学校をさらなければならない。そんな日がついにやってきたんです。

瀬戸内 それで義家さんはどうしたの?

義家 前日、俺は一睡もできませんでした。一年と三ヶ月、俺は一体、彼女のために何をしてきただろう?とずっと自問自答し続けました。思えば、彼女は、俺にとって「問題のない、手がかからない生徒」だった。いや、現実には、彼女もまた、ほかの生徒と同様に、たくさんの悩みや不安を抱えていたはずなのに、俺はそれに目を向けず、勝手にそう決め付けていた。そう、俺は彼女の心の中を見ようとさえしてこなかったんです。そのうえ、彼女が学校に来なくなってからは、「やめたら絶対に後悔する。今、頑張れば、その先の未来でたくさんのものが手に入るんだ」なんて、一般的な話ばかりを繰り返して説得していたんです。でも、そんなこと、彼女が一番わかっていたことで、だからこそ、彼女は実家にも帰らず、一人、寮の部屋で思い悩んでいたんです。

瀬戸内 それでどうなったの?

義家 時間数が切れる日の朝、朝六時半に彼女を迎えに行き、海に連れて行きました。そして車の中で彼女に謝った。「今まで、ほんとうにゴメン。俺はおまえのことを何もわかってやろうとしていなかった。結局、いろんなことを考えて一睡もできなかったよ。時間数が切れたら別れ、そう考えながら、今まで俺がおまえに対して投げかけてきた言葉の一つひとつを思い返してみたよ。そして、気がついたんだ。俺の言ってきたことって、実はおまえ自身が一番わかっていたことだったんだな。それさえ気がつかなかった俺は、ほんとうにダメな担任だよ。もし、まだ、おまえの中で学校をやめるか、続けるかの答えが出ていないなら、俺のために続けてくれないか。俺はもう誰もクラスの人間を失いたくない。それは俺のエゴだよ。でも本音なんだ。まだ時間数は切れていない。答えが出ていないなら、俺のために続けてほしいんだ。」

瀬戸内 「俺のために」って言ったのね。

義家 ええ。そして、そんな俺の言葉に、彼女は黙ってうなずいてくれました。それからは毎日、彼女を寮に迎えに行ったんです。半ば強引に車に乗せ、教室に運びました。それが彼女にとっていいことなのか、そうでないのかさえ考えずに、ただ、毎日、彼女が学校に通っているという事実に自己満足していたんです。バカな教師です。

瀬戸内 忘れもしない2001年の秋に、本校生七十九名が大麻の吸引に関わったという、いわゆる大麻事件が起きたんです。彼女はその事実を受け止めることができませんでした。彼女の心は壊れる寸前だったんです。事件の説明をしたホームルームで、彼女はただただ泣いていました。「もう俺のために続けなくてもいい」俺にはそれしか言ってあげることができなかったんです。そして、彼女は学校を去りました。

瀬戸内 ………。

義家 でもね、寂聴さん。それからも、俺たちは連絡を取り合ったんです。たとえ目の前にいなくなってしまっても、彼女が俺の大切な存在であることにかわりはないわけですから。それで、ある日、これからの人生の不安を吐露する彼女に俺は言ったんです。「俺が一生、おまえを守ってやる」って。彼女は、俺に人生を賭けると言ってくれました。

瀬戸内 そうでしたか。それで、クラスの生徒さんたちの反応はどうだったの?

義家 翌日、俺はまず、そのことをクラスの生徒たちに告げました。正直、彼らがどんな反応をするのか心配でしたけど……。すると彼らは言ったんです。「あんた、本気で俺たちに人生を賭けてたんだな」と。こうして2001年の冬に、俺たちは結婚しました。たくさんのクラスメイトたちが結婚式にかけつけてくれて、俺たちを祝福してくれました。なんだか本当に幸せでした。」

*出席日数が足りないのなら、とりあえず休学させれば良かったのでは?この話が本当なら、大麻事件で学校が大変なときに交際して結婚準備していたことになるが、それで男子生徒が「本気で俺たちに人生賭けていた」と言うのはおかしくないかね~

日刊ゲンダイ 2007.1.18

「ヤンキー先生に元教え子妊娠疑惑を直撃した」

義家氏は北海道・北星学園余市高校の教師時代の教え子と結婚しているが、その経緯について、ネット上であらぬ風評が立っているのだ。疑惑を追及するサイトにはこんなことが書かれている。

<(義家氏は)マスコミに出始めたころは、当時担任していた女生徒と交際し、妊娠、退学させたが結婚したことで「責任を取った」「純愛だった」と主張(した)。 でも、(05年の雑誌対談では)大麻事件で傷ついた女生徒の相談にのっているうちに付き合うようになったと発言。(別の雑誌では)退学後交際を始め、1年半後に妊娠発覚と発言している>

要するに、発言がコロコロ変っているので怪しいというわけだ。義家氏は作家・瀬戸内寂聴氏との対談本「私の夢 俺の希望」の中で、夫人が元教え子であることを認めている。そして、01年秋に彼女が学校をやめ、同年冬に結婚したことも告白している。

妊娠うんぬんの話が本当ならば、そんな人物が教育再生会議で発言しているのは違和感を覚える。真相はどうなのか、義家氏を直撃した。

本当に教え子を妊娠させたんですか。

「まったくの事実無根です。妻は結婚(01年冬)後の03年に出産し、子どもは来年から幼稚園に入ります」

彼女が01年秋に退学してすぐに結婚しているが、在学中から交際を続けていたのではないか。

「教師と教え子としての意味での交際はありましたよ。ただ、恋愛関係のある交際は一切なかった。当たり前でしょう、私は教育者ですから」

では、彼女が退学してから、交際を始めたということですね。

「退学後も交際はしていません。当時、学校で大麻使用者が続出した事件で、彼女はボロボロでした。夫として守らなきゃいけないと思った。彼女は一般人なので詳細については言えませんが」

恋愛関係のある交際がないのに結婚するのは不自然な気もしますが。

「個人の信念です。純愛なんていつでもできるけど、結婚は簡単にできることではないんです」

ネットで書かれている疑惑については全面否定だが、どうもよくわからない説明だ。夫人のプライバシーもあるのだろうが、きちんと語って欲しいものだ。

いやぁ~参りましたね。すごいアクロバティックな言い訳です。個人の信念ですか、そうですか。まぁ、この人の信念はコロコロ変るからさw

(主張の変遷参照)
またしても疑問ですが、大麻事件で傷ついた事件に関わらなかった生徒は奥さんだけだったのでしょうか?ほかにも生徒はいたでしょう?その生徒たちはほったらかし?守らなくてもよかったのか?自伝「不良少年の夢」の寄せ書きの写真では女子生徒の名前が複数ありますが。

1/13放送のスマステーションの再現VTRで教師たちは大麻事件に関わらなかった生徒のフォローをやったとありましたが、そのフォローが結婚?生徒のフォローで結婚するなら、同性の生徒はフォローしないということですか?不思議な学校だなぁ~北星余市って。

恋愛関係のある交際期間なし、信念で教師として傷ついた生徒へのフォローのために結婚したということは、今も当時も奥さんへの恋愛感情はないということですね。 でも、子どもは生まれたとw

>彼女は一般人なので詳細はいえませんが

ほかの生徒たちの問題行動や悩みなどは実名を載せてさんざんネタにしてきたのに、どうして奥さんだけ”一般人”として特別扱いなんでしょうか?ほかの生徒たちは一般人じゃないんですか?

================================================

週刊アスキー 2005年9月6日号

「進藤晶子のえ、それってどういうこと?」より抜粋

交際ゼロで中退生と結婚してしまいました

進藤 そのご家庭は、すこぶる円満だとか。

義家 いやー、結婚だけは一生しないと思っていたんです。結構、ヒドイ目にもあってきたから、ホント、女性恐怖症で(笑)。

進藤 それでも踏み切った(笑)。

義家 気合かな(笑)。

進藤 そこが足りないんだなぁ、私は(笑)

義家 ハハハ。でも今の妻じゃなければ、結婚はしなかったと思います。

進藤 どういうことですか?

義家 うちの学校を中退した生徒だったんです。自分も関わっていた生徒だったんですが、なにもしてやれなかったんですよね。当時を思い出すと苦しい気持ちになるんですけど。

進藤 なにかあったんですね。

義家 彼女は、突然学校に来れなくなってしまったんです。自分はその理由もわからず、ただ一生懸命やればこの子も学校に来られるようになり、卒業してから感謝してくれる はずだと、勝手に思い込んでいたんですね。だから、毎朝、迎えに行って強引に学校に連れて来ていたんです。とにかく、「がんばれ、今が乗り越えどきだ」と。

進藤 エールを送り続けた。

義家 まったく問題のない子で、目立つ子ではなかったから、つい、話を聞いてやれずにいたんです。いっぽうで、彼女も彼女なりにがんばっていて。でもそんなとき、大麻事件が起きてしまって。

進藤 学校不信になっちゃった。

義家 「この学校、なんなの」という思いになって、心が壊れちゃったんですね。だから、僕も「もう辞めていい」と言って、強引に学校へ連れてきていいたのは自分の自己満足に過ぎず、自分はなにもできていなかったことを謝ったんです。

進藤 生徒に謝るなんて、そんな等身大の先生、いてくれるものなのね。

義家 それからしばらくして、「これからどうしたらいいんだろう?」みたいな不安を彼女に相談されて、ホント、自分でも不思議なんですけど、「俺が一生守ってやる」と 言ったんですよね。

進藤 またまた、おおーっ!!(笑)。

義家 今思うと信じられませんけど。生徒としてはもちろん知っていますが、交際期間はないんです。ホント、信じられませんよね。

進藤 いやいや、やっぱり人生の節目には、そういう勢いも大切なんでしょう。

義家 ほかの先生方にも「生徒を大事にしているのはわかるけれど、それは結婚とは違うんだ、やめておけ」と言われましたよ。でも意地になりましてね。「うるせーっ、俺がいいと思ったから決めたんだ」みたいな感じで。

進藤 まさに気合だ(笑)。

義家 すぐに安心させたかったということもありましたから。ご両親も理解してくれて、それですぐに入籍、結婚しちゃった。ふつうならありえないですよね、今でも信じられ ないですよ(笑)。

進藤 うふふ、でもお幸せそう。

義家 まったく後悔してませんし、本当に幸せです。

==============================================

要するに「メンヘラになって中退したから結婚して救ってやったぜ!付き合うほど好きじゃないけど。」ということですね。同僚から止められて意地になって、勢いついて結婚しちゃったと。だから、幸せといってるこの時期に熊本の高級ソープに通っていたとw

「なにもできなかった」と言ってますが、本当にそうでしょうか?心が壊れたのなら、結婚するよりまず親元に帰すか、専門医に診せる、カウンセリングを受けさせるのが 教育者としての指導では?また、北星余市は登校できなくなり出席日数が足りなくなったら即退学という制度ではないようです。

「留年」という規定があると元校長が講演会(注1)で述べています。どうして、留年・休学という処置すらとらず、退学になるまでほったらかしていたんでしょうね?

=========================================

(注1)
記念講演 子ども・教育・平和――「ヤンキー先生」を育てた生徒・父母・教師・地域

深谷 哲也(北星学園余市高等学校前校長)

(季刊保育問題研究 新読書社/全国保育問題研究協議会編集委員会2005.10)より抜粋

不登校の子どもたちについて
普通は不登校の経験を持った子は、高等学校の場合は学年制であり単位制ですから、例えば欠席日数が二割以上オーバーしたら留年という留年規定があります。

(中略)

ところが今から十年ぐらい前のことです。すごく一生懸命な不登校の子どもや親たちが多く出て来て、ぜひ入れてほしい、試しにでもいいからと必死で言う。その熱心さに私たちも負けてしまって、入学の判定会議で決定し、何十人か入れてみたのです。すると私たちの認識をくつがえすことになりました。

そんな子どもたちが、実にきちんと学校へ通うのです。もちろんなかには来られなくなる子もいました。しかし、今まで不登校で小学校も中学校もほとんどいけないとか、中学校も三年行っていないとか、さまざまな不登校児たちが、北星余市高校に来ると、欠席は私たちが決めた規定の二〇パーセント以内におさまり、きちんと学校に通う子が八〇パーセントぐらいいるという事実にぶつかったのです。

参照元 : 義家弘介研究会・義家弘介の疑惑(結婚の経緯編)

0 件のコメント:

コメントを投稿